この世界で他人と本当に共有できているものなどひとつもないと思うとき私は宙に浮いているような気分になるよ
特に理由はないのですが、ちょっとタイトルいつもと違った感じにしてみました。遊び心。
さて、今日は私がたまに考えていることをつらつらと書いてみようと思います。
考えているというか、ふと頭に浮かんで、その度に ふわふわした気持ちになっていることでしょうか。
君に映るもの僕にも同じ色みえてるの?
見出しはGARNET CROWの『今日の君と明日を待つ』という曲の歌詞の一部なのですが、今回のテーマはまさにこういうことです。
私の見ている景色は、他の人にも同じように見えているのか。
私の感じている世界と、他の人の感じている世界は同じなのか。
でもそれは、私自身が他の人に乗り移って、その人の目で見て、その人の頭で考え、その人の心で感じる体験が出来ない限りは、どんなにがんばってもわからないことです。
私がその能力を持っていない以上、私と私以外の人の世界は、ぴったりと重なりあうことはあり得ないのです。
色
例えばリンゴがあったとして、その色を尋ねられれば、私も他の人も「赤」だと答えます。
晴れた空は「青」だし、夏の日に煌く木々の葉は「緑」です。
そして普段私たちは、他の人とその「色」自体を共有できているように感じていると思います。
でも、本当は私たちが共有できているのは、リンゴは「赤」、空は「青」、葉っぱは「緑」という「名前」の色をしているという情報だけで、その「色」が本当はどういうものなのかということはお互いにわからないままなのです。
もしかしたら私が「赤」だと感じている色は他の人の世界では「青」と名付けられている色なのかもしれません。
感覚
先述の色と同じように、痛みや快感、味や匂いなどの感覚も、私たちは、こういう状況のときはこうだよね、これはこんな味だよね、という自分の体験を、今までに付けられた「名前」で呼ぶことで同じものと仮定しているに過ぎず、私の「痛み」と誰かの「痛み」が本当に同じものを指しているのかは分からないままです。
そんな風に考えていくと、なんというか世界が解けていくような、自分がフワフワと浮いているような、なんとも言えない気持ちになってきます。
きっとこの私の文章を読んで、「分かる!」と言ってくださる方もいると思いますが、私のフワフワとあなたのフワフワが本当に同じもの、または似たようなものなのかは誰にもわからないわけです。堂々巡りですね。
言葉と名前
そんなフワフワな私たちが、お互いの世界を繋ぐよすがとしているのが「言葉」ではないかと思います。
モノや動きや概念や世界のあらゆるものに名前を付けて、私たちはその名前を共有しています。
言葉という符号を用いて、お互いの世界の姿を描き出そうとしている。
他には絵や音楽というのも、ある意味世界を共有しようとする方法のひとつでしょうか。
でも言葉も絵も音楽も、自分というフィルターを通してしか見ることができないのです。
孤独なような、優しいような、全部私一人の夢のような
他の人の世界を直接見ることはできないし、誰かに私の世界をそのまま体験してもらうことはできない。
そう考えるとなんだかものすごく孤独なような気がしてきます。
しかし、共有できないはずの互いの世界を、名前を付けたり、想像力を働かせることでお互いが理解して繋がろうとしていると思えば、それはとても優しさに溢れていて、孤独などとは真逆のような気もします。
そして同時に、私は私のフィルターを通してしか世界を見られないのだから、全てが私の見ている夢であるかのような気持ちになったりします。
今回の記事を書いている間、なんだか自分がひとりで宙に浮いていて、他の人もそれぞれ自分の世界の中に浮いていて、私たちはそれぞれを神経のようなもので繋いで、そこを情報が行き来しているような、そんなイメージが浮かんでいました。
このイメージも、私とあなたで共有できているような気がしているのですが、本当のところはどうなのでしょうか。