【映画】『ワンダーウーマン』を見ました
今日は、日曜日。
昼近くまで二度寝、三度寝を繰り返してうとうとしていると、映画好きの母親に映画に誘われたので行ってきました。
というわけで、映画『ワンダーウーマン』を見てきたので、早速レビュー記事を書きたいと思います。
ワンダーウーマン(2017年 / アメリカ)
アメコミの人気作品、DCコミックスの『ワンダーウーマン』を映画化した作品。
DCの作品群をクロスオーバーさせる「DCエクステンデッド・ユニバース」の第4作目となる本作では、『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』にて映画初登場となったワンダーウーマンを主役に据え、その第一次世界大戦中の活躍を描いている。
あらすじ
女性だけが住む島・セミッシラで、戦士として強く美しく育ったアマゾン族のプリンセス・ダイアナ。
ある日、美しい島に外の世界から飛行機が落ちてくる。墜落した飛行機に乗っていたアメリカ人パイロット・スティーブを助けたダイアナだったが、スティーブを追ってきたドイツ軍が一緒に島に入り込んでしまい、闘いが勃発。
外の世界での戦争を知ったダイアナは、それは闘いの神・アレスの仕業であり、平和を取り戻すのが自分の使命であるとして、スティーブと共にイギリスへと旅立つのであった。ダイアナたちはアレスを倒し、平和を取り戻すことができるのか・・・。
感想
全体としてはとても楽しく、ふふっと笑えたり、感動するシーンもあって悪くはなかったのですが、ストーリーとアクション面で少し惜しい感じのする作品でした。
ガル・ガドットさん演じるダイアナはとても美しくて、特にトレンチコートにハットに眼鏡というイギリスチックな衣装を着た姿がとってもかわいかったです。
あと、今回男性主人公となったスティーブ!彼が個人的にはとてもよかったです!
キャラクターとしても素晴らしかったですし、演じていたクリス・パインさんの可愛くてかっこいい表情に惚れてしまいました。
「DCセクステンデッド・ユニバース」シリーズはこれが初めてだったのですが、他の作品も見てみようと思える作品でした!
※ここから先は物語のネタバレを含みます。未鑑賞の方はご注意ください。
強く美しい女性たち!そして際立つ男性陣の戦い
この映画では強く美しい女性がたくさん登場します。
主役のワンダーウーマンはもちろん、島の女性たちも戦士として訓練されていて、弓や槍などを使いこなし、果敢に戦いに挑みます。
また、メインの悪役の一人であるドクター・ポイズンことマル博士。彼女は戦闘シーンはありませんが、ドイツ軍を勝利に導くはずの新型の毒ガスを開発する超優秀な科学者です。
顔の一部をマスクで覆われていますが、美しく、冷酷で、開発と実験に傾倒する姿は、マッド・サイエンティストとしてある種の強さを覗かせています。
そんなこの作品で私が特に良いと思ったのは、女性を主役に据えておきながら、男性たちをないがしろにすることなく、むしろ男性たちの戦いにこそ、生の質感をしっかりと与え、丁寧に描いていたところです。
ワンダーウーマンはもちろん活躍するのですが、彼女はもともと人間よりも強い、特別な存在です。
対して、一緒に戦うスティーブや仲間たち、そして敵のドイツ軍兵士たちはみんな普通の人間です。
そんな生身の人間たちの、生身の戦いぶりがきちんと描かれていたからこそ、ラストのスティーブのシーンに素直に感動することができました。
スティーブが素敵過ぎて惚れた
主役はワンダーウーマンなんですが、この映画はスティーブが本当に最高だったと思います。
普段はスマートな面白さがあって、戦争を終わらせるために危険をおかす正義感と勇気と行動力があって、それでいて戦場でも怯まず冷静な賢さも兼ね備えていて、紳士的で誠実。
完璧すぎました。
演じていたクリス・パインさんという俳優さん、私は初めて拝見したのですが、笑顔が素敵ですね。癒される。あと声も良かったです。
ただ残念ながらもうワンダーウーマン関連では彼が登場することはないのだと思うとちょっと悲しいです。
最近見た映画やドラマ・アニメの中で一番惚れたキャラクターかもしれない(笑)
女性の方は好きになる方多いと思うので、気になった方はぜひ劇場でどうぞ。
ダイアナはキャラクター設定が惜しかった
ダイアナは基本的に強くて賢くて可愛く美しいヒロインで、特に中盤までは違和感もなく、キュートでかっこいいなと思って見ていたのですが、戦場に入り戦い始めたあたりから、少し気になる部分が出てき始めました。
(※ここからかなりネタバレです。NGな方は次の項目まで飛ばしてください!)
ダイアナたちは敵の毒ガス攻撃を未然に防ぐために前線に赴くのですが、目的地に向かう途中で「戦争で全て奪われた、村を助けてほしい」という女性の訴えを無視できず、スティーブが止めるのも聞かずに一人膠着状態にある無人地帯に飛び出していきます。
結果的にダイアナの圧倒的な力で道が開け、スティーブたちも後に続き、村を助けることができたのですが、まずダイアナが飛び出せばスティーブは危険を顧みずに援護に出てしまう可能性が高いですし、目的があって急いでいたところをその村を助けるのが本当に良い選択だったのかも疑問ですし、ドイツ軍の兵士たちはこのダイアナ達の強襲によりバタバタと死んでいます。
結果オーライなだけでちょっと目先のことに捉われすぎている気がしますし、そもそもダイアナは前提として「軍神アレスの力で人間は戦争をさせられている」と考えているはずなのに、いわば「たまたま敵に回ってしまっている」状態のはずのドイツ軍兵士たちをあんなに簡単に殺してしまうのはどうなのよ?と思ってしまいました。
また、スティーブが毒ガス開発者であるマル博士を懐柔して攻撃を阻止しようと水際で奮闘しているところに、勝手にアレスだと思い込んでいるドイツ軍総督を殺しにやってきてスティーブの懐柔作戦は中断、そのまま総督を殺してしまうも戦争は止まらず、勝手に失望して、スティーブの心の底からの訴えも丸無視して自分は降りると言い出す。
このラストの流れは、それまでがそこそこ良かっただけにちょっと残念でした。
世間知らずはしょうがないけど、スティーブのことも信じられないのかと思うと、スティーブが可哀想で仕方ありませんでした。
しかも、スティーブたちが本当に瀬戸際で毒ガス攻撃をせき止めようと必死になっているタイミングで、生身の彼らが命を賭して戦うのを間近で見ながらの話です。
正直、ダイアナが総督殺しにこだわらなければ、もしくは殺した後にスティーブの説得に応じて協力していれば、スティーブはラストにあんな悲しい選択をせずに済んだのではないかと思ってしまいました。
アクションが少し浮いてしまっているような・・・
ダイアナは剣と楯、そして光るロープのようなものが主な武器なのですが、このロープがあからさまに光るので、なんとなくロープだけがアクションシーンでかなり浮いてしまっている感じがしました。
また、最後のラスボス・軍神アレスとの戦いのシーンではダイアナが覚醒するのですが、覚醒シーンの直前までがしんみりとしたシーンだったからか、唐突に高速で動き出したダイアナになんだか雰囲気を壊されたような気分になってしまったり(主役なのにごめんなさい・・・)、ビームでの攻撃はなんとなくウル○ラマンを彷彿とさせられました。
剣や楯を使っての肉弾戦部分はアクションシーンも迫力があって楽しかったので、CG部分の浮きがちょっともったいなかったかなと感じました。
細かい部分で気になる点はいくつかありましたが、全体としては楽しく見れましたし、何度も言いますがスティーブが本当に最高だったので、アメコミ好きやアクション映画好きの方で、細けぇことはいいんだよ!って方にはオススメです!
また、ストーリー面でもちょっとご都合主義的な部分はありますが、人間ドラマとしてぐっとくるところも多いので、そういった点もオススメポイントです。
この作品は現在進行している「ジャスティスリーグ」の世界より前の出来事なので、スティーブとの日々を経て、ダイアナがどんな風に成長し活躍しているのか、他の作品でもぜひ見てみたいなと思います。
夢の話
今日は一日中眠気が続いて、なんだか寝たり起きたり、起きてもずっとうつらうつらしながら過ごしていました。
ベッドから出なくては、と思うそばから、意識の端っこがもう眠りの中に引き込まれている。
遠距離の恋人からの雑談ラインに返信したつもりで、ふと意識が戻ると文章を作ったまま送信できてなかったり。酷い時は意味のわからない文章が入力されていたり。
また寝てた!と思って慌ててスマホで時間を確認すると、5分しか経っていなかったり。
こういう浅い眠りとまどろみを繰り返す日は、よく夢を見ます。
5分の眠りの中で、何時間も過ごしたような夢を見ていたり、夢って不思議ですよね。
今日はそんな夢について、書いていこうと思います。
昨日見た夢の話
いきなり余談から入って申し訳ないんですが、面白い夢を見た時とか、私は恋人に話したくなるんですけど、そのたびにスキマスイッチさんの『君の話』という曲が脳内再生されます。(めちゃくちゃかっこいい曲です。)
冒頭で「昨日見た夢の話など興味ない 退屈さ」と歌われてるんですよね。
しかも「回りくどい君の話し方なら なおさらさ」と追い討ちをかけてくる。
私のことじゃん!ってなります(笑)
というわけでちょっと退屈かもしれないですが、昨日見た夢の話させてください。
詳細はかなり曖昧なのですが、恋人が暴漢に襲われて、私がパイプ椅子で応戦するという夢でした。
別にそんなに変わった夢ではないと思いますが、個人的に面白いなと思ったのが、昨日私が見たドラマや動画に影響を受けていそうな内容だったことです。
昨日は『ハロー張りネズミ』というドラマと、ブログにリンクしてあった『トリビアの泉』の動画を見ました。
ちなみにブログは下記の記事です。
飼い犬にまつわる可愛いマンガを描かれていて、いつも楽しく読ませて頂いています!
『ハロー張りネズミ』では、幼稚園でのヒーローショーの際にDV男が乱入してきて乱闘になり、その際に並べてあったパイプ椅子が倒れる描写がありました。
『トリビアの泉』の方は「ご主人様が襲われた時に助ける犬は百匹中何匹か」という企画で、散歩中にご主人がクマの着ぐるみに襲われ、犬が逃げたり隠れたり助けたりするという内容でした。
どうでしょう。なんとなく、私の夢とリンクしていると思いませんか。
昔、「見たい夢の内容を書いて枕の下に敷いて寝るとその夢を見られる」なんておまじないがありましたが、見たい夢のPVを作って寝る前に見れば、より効果的に見たい夢を見られるような気がします(笑)
今回に限らず、その日見た映画やニュースの内容と似た夢を見ることは結構あるので、やはり、視覚的な刺激というのは、意識するしないに関わらず多大な影響力を持っているものなのだろうなと感じます。
願望を映し出す
夢占いでは、夢に見た内容は、そのイメージとは逆の内容を暗示していたり、別の願望の表れであるとするものも結構多い気がしますが、私の場合、あー明らかに自分の願望がそのまま映し出されたな、と思うような夢を見ることがたまにあります。
恋人に長く会えていないときに、恋人に会って楽しいデートをする夢を見たり、プロポーズを受ける夢を見たり、久々に旅行に行きたいなぁと思って調べたりしていたら、行きたいと思っていた場所に旅行に行く夢を見たり。
こういう夢は、シチュエーションや台詞が妙に現実的だったりして、寝ぼけているとそのままリアルな記憶の方に分類してしまいそうになります。
しばらくして冷静になると、虚しいやら、恥ずかしいやらで、私はこの手の夢があまり好きではありません。
でもこういう夢を見ると、自分で思ってた以上にこういう願望が強くなっていたんだな、と自覚するのには役立っている気がします。
皆さんはそういうストレートな夢って見たりしますか?
私が特別単純なだけかもしれないですね(笑)
知らない人や知らない場所、現実と異なる役割の人たち
今までは、現実で見た映像や、感じていた願望など、夢と現実ってやっぱり繋がり深いなぁと思うようなお話だったのですが、それとは逆に、これどこから出てきたんだろうとなることも多いのが夢の世界ですよね。
全く知らない人が昔からの友人として違和感なく登場していたり、知らない場所のはずなのに、なんかこういうところだ、と理解していたり。
あと、たまにあるのが、ストーリー的に「弟」として登場していた人物で、夢の中でもその人は「弟」だと認識していたけど、起きて冷静に思い返してみると知らない人だったり、実は現実での恋人だったなってなったり。
こういう知らないはずのものが登場したり、世界観に大きなねじれが出たりするところは夢の面白いところ。
以前、「夢は記憶の整理のために見ている」という説をどこかで見ました。
知らないと思ったものでも、実はどこかで目にしていたりする。
起きている間の出来事を、意識しているものもしていないものも全部引っ張り出して、それを整理している間に出来る副産物のようなイメージでしょうか。
整理された「知らない人」たちは、どこにいってしまうのだろうか。
続きものの夢
最近は全く見ていないのですが、幼い頃、これは明らかにこの間の続きだな、とわかる夢をみることがありました。
ダンジョンのようなところで敵から逃げる、という夢でした。
毎回夢を見始めてしばらくして、「この夢だ」と思い、逃げ始めます。
この夢は私にとって怖い夢だったので、わかった時点で「早く起きたい」という意識がどこかにあります。
「夢である」という自覚があり、「起きたい」「起きなきゃ」と強く思うと実際に起きられることがありました。
夢の中で逃げる時も、こっちに行こうなどと思考していた記憶があります。
おそらく「明晰夢」というものだったのだろうと思います。
私の場合、明晰夢らしき夢は怖い夢がほとんどだったので、積極的に見たいとは思わないのですが、逆に極めていけば自由度が上がって、楽しい夢にできたりするのかもしれないですね。
当時は続きものの夢だと思っていましたが、今考えると、何らかの不安や願望などが似たようなシチュエーションとして反映されて、その夢を見やすかったのかもしれないですね。
でも「続きだ」という感覚は、今考えてもなんだか不思議なものがあります。
さて、今回は夢に関して思ったことをだらだらとお話してみました。
「回りくどいし、退屈」と思われていなければよいのですが・・・。
夢の世界は興味があるのですが、夢日記とかあんまりつけるのはよくないって聞きますし、ほかの方の話を聞く機会も意外とないので、いつも不思議だなぁくらいで終わってしまいます(笑)
もしも面白いエピソードや学説などご存知の方は、ぜひ教えてください!
それでは、皆さん楽しい夢をみてくださいね。
恐怖は想像力の中に
先日、はてなブログのトップにJAL機のエンジントラブルに関する記事が掲載されていました。
その記事がこちら。
話題になっていたので、すでに読まれた方も多いかと思います。
飛行機に特化したブログで、執筆者の方も記事内で自らを「航空事故の専門家」と称されており、実際にかなり専門的な視点から、今回のエンジントラブルからの帰還に関して説明してくださっています。
双発機(エンジンを2機搭載している飛行機)で片方のエンジン(推力の半分!)を失っても、きちんと離陸し、旋回し、着陸出来た点、そしてそのように設計されている飛行機と、緊急時にも備えてパイロットの方もしっかりと訓練されている点など、「安全」の根拠となる事実が丁寧に述べられています。
素人にもわかりやすく、私も「なるほど、飛行機は徹底的に安全が考慮された乗り物なのだな」ととても感心しました。
しかし、もともと飛行機が苦手な私の中での飛行機への恐怖心は全く減る気配がありません。
そしてきっと、どんなに理論上の安全性が高まったとしても、ずっと拭えないのではないかと感じました。
そうしたら、「恐怖」の出所はどこなのか。
前置きがかなり長くなってしまいましたが、今回はそんな「恐怖」に関して考えてみようと思います。
恐怖はイメージの中にある
前述の飛行機の例で言えば、私の恐怖心の発端はどこにあるかというと、主に下記の2つだと言えます。
- 落ちたらほぼ確実に死ぬ(というイメージ)
- 落ちる可能性がどんなに低くても0ではない
飛行機側がどんなに安全性に配慮して、落ちる可能性を限りなく0に近づけてくれたとしても、私の頭の中のイメージを、その具体的で客観的な根拠は拭ってくれません。
ただ、実際に飛行機に乗っていない時であれば、そういった様々な情報は、しっかりと有効性を見せ、心配せずに飛行機に乗っていいんだよ、と私の背中を押してくれます。
しかし、いざ飛行機に乗り込み、飛び立ち、空の上に行ってしまうと、理解していたはずの「安全」がどんどんと離れていき、いつかテレビで見た事故の再現映像が頭をかすめはじめます。
バードストライク、エアポケット、油圧隔壁、エンジントラブル。
どこかで見聞きした単語が頭の中で回り始め、ちょっとした揺れにも心臓を持っていかれそうになります。
でも冷静になってみれば、それは全て私の頭の中の出来事で、言ってしまえば妄想でしかありません。
周りを見回せば、他の乗客の方はゆったりとリラックスしているし、空だって綺麗だし、CAさんは皆ニコニコと余裕たっぷりに仕事をしています。
多少大きく揺れても飛行に問題はないという機長さんのアナウンスも聞こえてきます。
ゆっくりと、恐怖が消えていくのを感じますが、小さな揺れにまた不吉なイメージが舞い戻ってきます。
イメージは不意の隙間にすぐに入り込んでくるので、飛行機ならば寝たり、音楽を聞いたり、読書に没頭したり、必要以上に恐怖を感じてしまうときは、隙間を作らないようにするのが良いのかもしれないですね。
情報が恐怖を作る
前項では、恐怖はイメージの産物だというお話をしましたが、それではなにがイメージの元になっているかというと、それは様々な情報です。
経験したこと、テレビで見たこと、伝え聞いたこと。
今まで得た様々な情報がイメージを形作っていきます。
わかりやすい例をあげると、ホラー映画を見た後。
今までなんともなかった暗闇がなんだかものすごく怖く思えてきます。
他にも残忍な殺人事件を扱ったニュースを見たり、残酷な小説を読んだ後、夜中にエレベーターに乗り込むとき、玄関のドアを開ける時、それまで以上に緊張していることに気付いたりします。
今まで存在しなかった恐怖が、新たに芽生えているのです。
これは恐怖に限らずですが、知ることで、今までなかったものが生まれると考えると面白いですよね。
実際に自分が経験したことでなくても、例えば知った内容が架空のものであったとしても、知ったことによって自分の中に新しい世界ができあがってしまう。
でもそう考えると、恐怖以外の感情に関しても、知ることによって変化した差分を強く感じても良い気がするのですが、あんまりないような・・・?
例えば、エレベーターでの殺人を新しく知ったとしたら、エレベーターが新しく恐怖の対象になりますが、教会での結婚式を新しく知ったからと言って教会が幸せの象徴に見えたり・・・しますね。しましたね。
幸福より恐怖の方がその瞬間の刺激が強いから、記憶に残りやすいのかもしれません。
それに、恐怖は自身を守るための本能が恐らく強く関係しているので、より感じやすいものとも考えられますね!
なんの話でしたっけ・・・(笑)
とにかく、新しく得る情報が、また新しい恐怖をどんどん生み出していく。
それじゃあ恐怖って増える一方なのでしょうか。
恐怖は増殖し続ける?
新しい情報によって新たな恐怖が追加されるとして、逆に恐怖がなくなることってあるのでしょうか。
私は基本的に、一度感じた恐怖が完全に消えることはないのかなと思っています。
知ってしまった情報は消えないし、イメージはどこかに残り続けると思うからです。
ただ、忘れたり、薄れたりすることはあるように思います。
それは例えば慣れだったり、逆に滅多に触れる機会のないものに対する恐怖だったり。
そういったものは、日常生活的にはもうないも同然と言えるかもしれないですね。
それでも恐怖はどこかに蓄積されていて、生きていくうちにどんどんどんどん増殖し続ける。
でも別に悲観することはないですよね。
良く考えたら、生きるってそういうことかなと思ったりします。
色々と経験して、知っていることも増えて、できることが増えていくと同時に、怖いものやできないことも増えていく。
だから、私は多分一生、飛行機も夜道も怖いままだし、他にも怖いものは増え続けるけど、負けずに生きていきます(笑)
なんだかちょっと脈絡がなくなってしまいましたが、今回はこのへんで終わろうと思います。
恐怖も幸福も、私の世界は全部、私の想像力の中にある。
【小説】東野 圭吾『白夜行』を読みました
今回は久々の小説レビューです。
なんと前回から1ヶ月以上開いてしまいました・・・。
文庫本で850ページくらいあって、まとまった時間を取らずに移動時間などにちょこちょこ読み進めていたら、いつの間にか読み始めてからかなりの時間が経っていました。
ただ、今回の小説は登場人物が多く、長い年月にかけて追っていく形の構成だったので、しばらく読んでいないと人物同士の相関が曖昧になってしまったりで、ページ数が多いからこそ一気読みすれば良かったな、とちょっと後悔しています。いつか再読する時は、まとめて読もう。
東野 圭吾『白夜行』(1999年)
福山雅治さん主演で連続ドラマ化された『ガリレオ』シリーズや、『手紙』『さまよう刃』など多くの作品が映画化もされている、知らない人はいないであろう稀代の人気ミステリ作家・東野圭吾さんの作品。
本作自体も2006年にドラマ化、2011年には映画化され、どちらも大きな反響を呼びました。
1973年、大阪の廃墟ビルで質屋の店主が遺体で発見された。何人かの容疑者が捜査線上に浮かぶも、結局事件は迷宮入りしてしまう。月日は経ち、当時小学生だった被害者の息子・桐原亮司と容疑者の娘・西本雪穂はそれぞれが別の道を歩んでいく。そんな二人の通った道にいつも残る陰。19年の足取りを追い見えてくるものとは。
ドラマ化や映画化でタイトルだけは知っていて、評判が良さそうだったのでずっと気になってはいたのですが、長年手に取る機会がなかった本作。
ブックオフで見つけて、そういえば読みたかったんだったと思って、この度数年越しにやっと読むことができました。
東野圭吾さん自体は、ドラマの『ガリレオ』で存在を知り、『探偵ガリレオ』を読んで面白くてびっくりして、それから『手紙』や『さまよう刃』など、映像化で話題になったものをたまに読んでいましたが、多作で、作風も様々で、安定して面白い。才能に溢れた作家さんというイメージです。
東野作品には色々なテイストのものがありますが、本作はかなりダークです。
主人公二人は二人共に賢く、そして冷たい。
二人の感情の描写を極端に排除することで、より一層作品全体の温度が下げられ、そしてどんなに想像力を働かせても悲劇でしかない二人の境遇や心情に、さらに体温を奪われていきます。
この作品には救いはありません。
主人公たちはただ淡々と白夜を歩き続け、彼らの行く先にいる人々も、いつの間にか白んだ夜の中に沈み、彼らの道に溜まる陰となっていきます。
段々と霧が晴れて全体像が見えてくる、ミステリーとしての面白さももちろんあるのですが、結局は二人の心の中までは触れられず、「真実のようなもの」と二人にしか(もしくはそれぞれにしか)わからない真実の間に横たわる何かや、真相にたどり着いたからといってその先に何も見えない空虚さが、この作品の魅力のように感じました。
※ここからは作品の核心部分、ネタバレを含みます。ご注意ください。
霧は晴れても、夜は明けぬまま
1件の殺人事件から19年間。
被害者と容疑者の子供たち二人を、その接点を持たせないままに、そして二人の心情を直接語らせないままに描き出していく手法で、見事に読者の想像力を掻き立てる作品になっています。
あまりに視界の悪く長い道中を、主に刑事(後半では元刑事)の笹垣が水先案内人として手を引いていき、最後には二人のおおよその足取りを見せてくれます。
いくつもの事件が起きている上に、違う時系列や視点の話をいくつも重ねていくような構成になっているため、ラストに笹垣が真相を語っていくまでは、事実と疑問で散らかったまま読み進めていくことになりますが、ラストにかけてそれらは徐々に整理されていき、それまでの出来事や事件の形は見えるようになります。
しかし、結局事件の全体を眺められる視点を持った後も、誰も二人の心に近付くことはできません。
笹垣は執念で二人の辿った道のりを浮かび上がらせるところまでたどり着きましたが、あと一歩のところで二人の心に触れるチャンスを逃します。そして恐らく、もうそのチャンスは二度とやってこないのではないかと思います。
もしも、亮司を捕まえることができていれば、あるいは二人を白夜から昼の太陽のもとに連れ戻すことができたのでしょうか。
二人はの求めるものはなんだったのか
亮司と雪穂は、作中で様々な罪を犯します。
産業スパイにレイプに殺人。自分たちの邪魔になるものは徹底的に排除していきます。
そしてそのために、他のどんな人たちも利用し傷付けることを厭いません。
どうしても欲しいもののために、お互い以外の全てを捨てる。そのこと自体は、行いに共感はできなくとも、理解はできます。
しかし、改めて思い返してみて、彼らがそこまでして望んでいたものは一体なんだったのだろうと疑問に思うのです。
亮司は、彼の願いはきっとただ雪穂に幸せになって欲しかっただけ。
そのために自分自身がどこまで沈んでも、一生白夜の中を彷徨うことになっても構わないと思っていた。
ただ、それが愛ゆえのものかはわかりません。強い贖罪の意識からきていたのかもしれない。愛であれば良いな、と思ってしまうのですが。
しかし、雪穂は一体なにを求めていたのでしょうか。
私には、彼女の中身はずっと空っぽだったように思えてなりません。
先に見据える望みなどなくて、ただ、彼女を煩わせるものを排除していっているだけのように見えるのです。
なにを望めば良いかもわからなくて、ひたすら白夜の中を歩いている。
彼女はいつかどこかに辿りつけるのでしょうか。
雪穂は亮司を愛していたか
この作品の印象は、雪穂という人物をどう捉えるかで大きく変わると思います。
基本的に心の一部を失ってしまっているのは間違いないと思うのですが、一部の人に対しては愛情や愛着を持っているのか、それとも自分以外の全てに対して(もしかしたら自分に対しても)感じるべき感情自体を失ってしまっているのか。
私は読み終わってすぐは、雪穂にとって亮司だけが特別で、ラストの台詞も亮司の気持ちを無駄にしないために、気持ちを押し殺したのだと感じました。(同じく東野さんの『容疑者xの献身』では、似たようなシチュエーションで愛を表現しています。)
そう思いたいという気持ちもあったかもしれません。
しかし、この記事を書いているうちに、もしかして雪穂はもう誰にもなにも感じなくなってしまっていたのかもしれないと思い始めました。
亮司のことは、信頼のおけるパートナーとして、他の人より近しい存在ではあったかもしれないけれど、一番有能な駒だっただけで、他の人と同じく利用していただけだった。
ものすごく虚しいですが、そういう可能性もあります。
雪穂が亮司を愛していたなら、あそこまで多くの人を不幸にして、亮司の手を汚さなくても、二人で生きる方法がきっとあったように思うのです。
仮に亮司に何の気持ちも抱かずに生きていたなら、雪穂の人生はきっと私の想像できないほどの孤独の底にあります。
やっぱりせめて、二人がお互いを想い合っていてほしいと思わずにはいられません。
静かな絶望の上を行く二人を、ただただ眺める作品でした。
今でも考えるたびにくるくると雪穂の印象が変わっているので、そういった意味で余韻が深く、小説世界の面白さを感じます。いろんな人と語り合いたくなりました。
もし読んだことのある方は、感想や解釈などぜひ教えてください!
私が経験した習い事たち
幼い頃から、長いものでは大学生の途中くらいまで、私はたくさんの習い事をさせてもらっていました。
ふと思い出したので、それぞれの習い事について思い出せる限り書いてみようと思います。
ピアノ
長く続いた習い事の1つです。
幼稚園の頃から、多分大学1年の途中くらいまで習っていました。
小学生~高校生あたりまではヤマハのグループレッスンと、家に先生を呼んでの個人レッスンを別々に受けていたので、週2回はピアノのレッスンを受けていたことになります。
そこまでやっていたならさぞやすごい腕前なのではと思われるかもしれませんが、大したことはありません(笑)
楽譜が読めて、練習を重ねればやっと1曲マスターできるといった感じで、初見ですらすらと弾けるほどの腕前にはなりませんでした。
先生方は熱心で丁寧だったので、もっとハマって練習すれば特技にできていたかもしれないですね。もったいないことをしました。
今でもピアノを弾くのは嫌いではないので、たまーに気が向いたら楽譜を引っ張り出してきて、つまりながら弾いたりしています。
楽譜を読めるようになったことと、クラシックの楽曲に多く触れられたこと、ピアノの良さを知れたことはとても良かったなと思っています。
またちゃんと練習し直そうかなぁ・・・。
バレエ
バレエは幼稚園~中学生くらいまでやっていたような気がします。
週2回のレッスンで、1回のレッスンの半分を基礎的な練習、半分を音楽に合わせた振り付けの練習といった感じの内容で行われていたと思います。
年に何回か発表会があり、その時に着る衣装の美しさは子供心にときめくものがありました。
バレエと言えばトゥ・シューズを連想する方も多いかもしれませんが、基本的には柔らかいバレエシューズで練習しますし、中学生になるくらいまではトゥ・シューズをもらえませんでした。
初めてトゥ・シューズを履いた時は、とても感動したのを覚えています。
踊ることは好きだったのですが、もともと身体が硬く、ストレッチ等は辛かったです。
また、やはりバレエの世界は前に出たがる女の子たちが多く、そういった空気が苦手で止める直前くらいはたまにサボってしまっていました。お母さん、ごめん。
でも、レオタードにトゥ・シューズ、チュチュや、優雅に伸びる手足。バレエのキラキラした世界はとっても素敵でした。
水泳
小学生いっぱいくらいまでやっていたような・・・?ちょっと曖昧です。
水泳は、正直ちょっと行きたくない習い事でした。
いや、楽しいのは楽しかったんですが、すごく疲れるんですよね。
そして、クラスがあがるに連れて、段々自分が落ちこぼれていくのがわかったのが辛かった感じもあります。
もともと、運動神経がめちゃくちゃ悪いわけではないけど、体力などがそこまであるわけでもないタイプなので、バタフライで50mとか泳ぐようになるとかなり辛かったのを思い出します。一番好きなのは平泳ぎでした(笑)
でもお陰で水に慣れていて、泳ぎ方も一通り知っていて、小中高と水泳の授業で困らなかったのは助かりました。
大人になると泳ぐ機会ってほとんどなくなってしまったので、ジムとかで泳ぎたいなぁという気持ちになったりしています。
テニス
これもピアノに続き長く続いた習い事の1つです。
高校のはじめくらいまで習っていた気がします。
もともと両親が大学時代にそれぞれテニスをやっていて、母の方は特に熱を入れてやっていたようで、主婦になってからもレッスンを受けていました。
それなので、母としては子供の習い事の中で一番思い入れがあったかもしれません。
私もテニスは結構楽しくて好きでした。
パワーはそこまでありませんでしたが、打ち返すコースや、相手がミスするまでねばったり、戦い方が色々とあったので面白かったです。
中学生くらいまでは割りと真面目に習っていて、試合や中体連などにもよく参加していました。(結果は全然ですが笑)
高校以降はほとんどやっておらず、今ではすっかり腕も体力も鈍ってしまっていますが、一応家族全員が出来ますし、意外と本当に初心者の人でも結構楽しめるスポーツなので、大学の友達と集まってやったこともあったりと、これからもたまにやることもあるかな、と思えるスポーツです。
書道
小学生いっぱいくらいまで習っていたはずです。
こちらも母がもともとやっていて、一緒にお教室に通っていました。
書道は県の大会で入賞したりと、結構がんばっていた気がします。
正座が辛かったですが、静かな中で、淡々と文字を書いていくのは好きでした。
書いたら先生に見せるのですが、直しを入れてくれる朱の墨がなんとなく好きだったのを思い出しました。
今ではもう祝儀袋に筆ペンで名前を書くのすら難しくなってしまいましたし、筆なんて中学卒業以来全く握っていませんが、今でも文字を書くこと自体は好きです。
暇な時とかは、紙に意味なく歌の歌詞を書いたりしていることがあります(笑)
書道も大人になってもう一度やってみたいなと思うものの1つです。
集中して文字を書いていったら、なんだかすっきりしそうな気がします。
塾
小学生までは小さい私塾みたいなところに、中学の間は地元では大きな塾に通っていました。
中学で通っていた塾は、週3~4回くらいで、放課後から夜までがっつりでした。
恐らく中学時代が人生で一番勉強したと思います。
正直塾は拘束時間が長く、課題も多くて大変でしたが、講師の先生方の教え方は本当にすごくわかりやすくて、これが塾か、とびっくりしたのを覚えています。
学校の授業も楽しかったのですが、それとはまた全然別物だと感じました。
無事に志望していた高校に合格できましたし、大変だったけど、勉強も結構楽しいと思えた体験でした。
英語
英語は結構短期間の習い事だったと記憶しています。
小学校のある時期だけ通っていたような・・・。
外国人のネイティブの先生がいて、子供がいっぱいいて、ゲームなどをしながらワイワイするタイプの教室だったと思います。
ただ、短期間だったのもあってそこまで身についておらず、今もあいきゃんとすぴーくいんぐりっしゅ状態です(笑)
せっかく習っていたし、あの頃から勉強し続けられてたらなぁと今は思います。
やっぱり、情報収集だったり、色々な文化圏の人とコミュニケーションを取りたいと思うと、英語が使えると格段に幅が広がるだろうなと感じることは多いです。
これまで何度か英語勉強しようと思って挫折してしまっているのですが、また再チャレンジしようかな。
芸能養成所(芝居・歌・ジャズダンス・タップダンス・日舞等)
ラストは芸能関係の習い事です。
これは私自身が大好きで、幼稚園くらいから大学1年生くらいまで続けていました。
途中で通う養成所が変わったりはあったのですが、やっていることはどこも結構似たような感じで、芝居・歌・ダンスなどです。
私は特にお芝居が好きでした。
自分ではない自分になるあの感じは、他のことではなかなかできない体験です。
あとはタップダンスも結構ハマって、レッスン中は他の人たちより熱心に練習して、先生に褒めてもらったりしていました。
たまにある養成所の発表会で、お芝居したり、歌ったり、踊ったりするのが、本当に本当に楽しかったです。
お芝居は、今でも本当にやりたいことのひとつで、趣味でいいからどこかでやれたらな、とずっと思っています。
なにか行動しなくちゃいけないですね。
さて、こうして振り返ってみると、本当にたくさんの習い事をさせてもらっていたな、と思います。
私がもしこれから親になったとして、ここまで色々なチャンスを子供に与えてあげることってできない気がします。
両親にはその点では本当に感謝しかありません。
どれひとつとして、本格的にものにはできませんでしたが、きっとあの頃の色々な経験が、今の私の中にさまざまな形で息づいて、私を形作ってくれていると思います。
これからも、ふとした時に助けられることもあるかもしれません。
今回思い出したことで、色々やってみたいな、がんばらなくちゃな、という気持ちにもなりました。
やりたいこと、どんどんやっていくようにしようと思います!
【映画】『探偵はBARにいる』を見ました
昨日『グレッグのダメ日記』のレビューを書いた際に、気が向いたらその前に見た『探偵はBARにいる』のレビューも書くと書いていたのですが、早速気が向いた、というか、せっかく見たならやっぱり記憶が新しいうちに残しておこうと思ったので、今回書いていこうと思います。
書くかどうか迷っていたのは、お酒を飲んでいたのと、台詞音量が微妙で聞き取れなかった部分がぼちぼちあったのと、バイオレンスに気を取られて話を本筋を見失ったところがあったからなのですが、そのへんも加味して、話半分、とまではいきませんが、8割くらいの雰囲気で読んで頂けると有難いかもしれません。(※あくまで個人の感想です)
探偵はBARにいる(2011年 / 日本)
東直己さんの推理小説シリーズ「ススキノ探偵シリーズ」の第2作目『バーにかかってきた電話』を原作とした探偵映画。
バーを根城にする私立探偵の〈俺〉を大泉洋さん、その助手・高田を松田龍平さんが演じ大ヒット。現在映画は第3作まで公開されている。
ハートボイルドものを謳っており、シリーズは全作PG12となっている。
あらすじ
ある日、札幌・すすきののバー「ケラーオオハタ」を 根城とする私立探偵〈俺〉のもとに、「コンドウキョウコ」を名乗る女性から1本の電話がかかってくる。
お金は振り込んであるので、ある弁護士に会って2月5日の「カトウ」という男の動向を探るように、との依頼を受ける。正体を隠そうとする依頼主と簡単そうな依頼内容をいぶかしみながらも、押し切られて弁護士のもとへ向かった俺。
弁護士がカトウという名前に反応を示したのを確認し、楽勝だったと帰るその途中で、俺は拉致され雪原に埋められてしまう。
危うく殺されかけた俺のもとに、コンドウキョウコから次の依頼の電話がかかる。
命を狙われるほどの事件の真相はどこにあるのか。コンドウキョウコとは何者なのか。
俺の命をかけた調査が始まった。
感想
大泉洋さんと松田龍平さんコンビの絶妙な空気感と、くすっと笑える台詞回しは楽しかったです。
携帯を持たない主義でバーの黒電話で依頼を受けたり、可愛いポンコツ車に乗っていたりと、そういった昭和的(?)な映像も美しかったです。
ただ、バイオレンス面がちょっと私には刺激が強すぎました。ストーリー的に外せない部分であればそれでもなんとか我慢できるのですが、あとあと振り返ってみてもあのシーン必要だった?となる感じで、せっかくコメディ調で楽しんでいたところで、なんだかもったいないなと思ってしまいました。(あれがハードボイルドなのでしょうか?)
あと、大泉さん演じる〈俺〉の行動がちょっと感情的すぎて、探偵としてはどうなのよ、と思うシーンが多かったです。熱い男演出なのでしょうか。
飄々とした探偵と助手の雰囲気は素敵だったので、暴力シーンに注力せずに、ストーリーとディテールにこだわって、コメディ路線強めでいってくれれば私好みだったな、と思いました。(勝手な願望)
おっぱいやHシーンの写真がノーモザイクで出てきたあたりは昭和な感じがして個人的には好きでした。
※ここからは作品の核心部分、ネタバレを含みます。ご注意ください。
〈俺〉と助手の抜け感は素晴らしい
どんな場面でもちょっと皮肉ってみたり、カッコつけてみようとする探偵〈俺〉と、とにかく寝ていることが幸せで、いつも俺のピンチが始まって、しばらく経ってやっと登場する助手の高田。
この二人の抜けた空気感はとても素晴らしかったと思います。
基本的に高田は俺のことを適当にあしらって、空気も読めません。面倒くさそうに、それでも危ないシーンでもついていこうとする高田。そんな高田にグチグチ言いながらもピンチにはやっぱり高田を頼る俺。
普段はほとんど意見を言わない、感情を見せない高田が、度重なる暴力による警告で死にかけた俺に「手を引け」と伝えるシーンは、二人の関係が見えてとても良かったです。
この二人の空気感と関係性、キャラクターはとても良かったので、もっとソフトなタッチの話であれば、シリーズの他の作品も見てみたいかなぁと思います。
煩雑なストーリーと思わず目を背けたくなる暴力描写
この作品ではコンドウキョウコからの依頼の目的とその事件の真相はなんなのかということと、コンドウキョウコは何者なのか、という主に2つの謎が主軸になっています。
依頼のもとにある大きなストーリーと依頼主という部分に謎を持ってくるストーリーの構成自体は面白いと思うのですが、本作品ではそこにヤクザが絡み、コンドウキョウコに絡むメインストーリーの他に、もう1本、ヤクザが運営する道場に通っていた少年とその家族のお話が軸を作っています。
が、この少年と家族の話がどうも私にはあまり頭に入ってきませんでした。
少年がコンドウキョウコにまつわる事件の実行犯をさせられ殺されて、その証拠を握っている少年の父親が、ヤクザ相手にゆすりを働き豪勢な生活をしている。
途中までゆすりに応じていたヤクザですが、謎のタイミングでぶち切れ、この家に乗り込み、父親はもちろん、何の関係もなかった妻も殺害します。
この殺害シーンが最悪でした。
父親への殺害前の見せしめのために、妻の脚を打ち抜いていきます。
悲鳴が漏れないようにクッションを顔に押し当て、ニタニタと笑いながら容赦なく引鉄をひきます。
敵の残虐性を強く残したかったのかもしれませんが、このシーン必要だった?
というかそもそもこの親子のエピソード自体必要だったのか疑問です。
他にも俺への脅しのためにガンガン暴力が振るわれますが、結局コンドウキョウコの正体を考えると、あの最後の脅しシーンも納得できず。
暴力絡みのシーンにあそこまで時間を割くなら、もう少しストーリー説明やサイドの人物達の描写を丁寧にやってほしかったかもしれないです。
感情任せに暴れる探偵
あと一番気になったのは、俺の行動がいつもかなり感情優先なこと。
特に前述の夫婦の殺害シーンを目撃した後、怒りに任せて現場で暴れまわったシーンは、いやいや、と思ってしまいました。
他にも明らかに危険な場面でどんどん突っ走ったり、後先考えずとりあえず敵陣に乗り込んでいったりと、感情的で熱血漢というキャラクターだとしても、探偵としてそれはどうなの、と感じる部分は結構多かったです。
そういう意味では助手の高田の方が探偵らしかったかもしれません。
ただ、高田も軽く注意はしながらも、結局俺の行動についていってしまって、止めるところまでは至らないので、もう少し高田のコントロール力が増せば、コンビ探偵としての色が出るかもしれません。
とりあえず、ハードボイルド探偵ものというよりは、ヤクザバイオレンスものという雰囲気でした。
会話や二人の雰囲気は好きだったので、暴力によってしまったのがやっぱり個人的には惜しいなぁと思う作品でした。
あと、この作品に限らずですが、邦画ってDVDとかになるとBGMと台詞の音量や、シーンごとでの音量バランスの悪さがすごいのはなんなんでしょうね(笑)上げたり下げたりしながら見るのに疲れて、途中聞き飛ばしたところが結構ありました。
シリーズのほかの作品は、あらすじと他の方のレビューを参考にして、見るかどうか検討しようかなと思っています。
あ、あと、ハードボイルドとはなにか、調べてもイマイチ分からずで、詳しい方がいればぜひ教えて頂けると嬉しいです!
【映画】『グレッグのダメ日記』を見ました
今回は、アメリカの中学校でイケてる中学生を目指す男の子を描いた映画のレビュー記事です。
お酒を飲みながら見ようと思ってAmazonプライムを物色していて、はじめは『探偵はBARにいる』を見たのですが、思いの外バイオレンスな感じで辟易してしまったので、もう間違いなくコメディだろうと思われる作品をチョイスしました。
(『探偵はBARにいる』もちゃんと最後まで見たので、気が向いたら近いうちにレビュー記事を書くかもしれません。)
グレッグのダメ日記(2010年 / アメリカ)
アメリカの漫画家ジェフ・キニーによる同名の児童書を映画化した作品。
中学生になったばかりのグレッグが人気者を目指す日々を描いています。
原作はシリーズ化され、世界的に商業的成功を収めており、日本でもポプラ社によって最新の11巻まで全てが刊行されている。
日本では劇場公開がなくDVDのみの販売となっていますが、映画も現在シリーズ第3弾まで製作されている人気作です。
あらすじ
中学校初日を迎えるグレッグは、卒業アルバムの「人気者」のページに載るイケてる中学生になることを心に誓っている。
小学生時代からの親友ロウリーはイイ奴だけど激ダサで、中学デビューを目指すグレッグの足を引っ張ってくる。
イケてる中学生は親友もイケてないといけない。ロウリーの服装や振る舞いにも口を挟みながら、あらゆる手段を使って人気者を目指すグレッグ。
果たして彼は無事に人気者になることができるのか。
感想
アメリカの学校!という感じの映画でした。(アメリカの学校の実態はわかりませんが・・・)
如実なスクールカースト、カフェテリアでのランチに、ミュージカルのオーディション。
主人公のグレッグはスクールカーストの低位から人気者まで登りつめようと奮闘するのですが、これがなかなか嫌な奴です。
大人目線で見れば、ブラックジョークみたいなノリで楽しいのですが、子供向けで作っているのだとしたらなかなか過激なキャラクター設定だなと感じました。
また、グレッグたちの1学年上で新聞部のクールな女子生徒アンジー役で、『キック・アス』で有名なクロエ・モレッツちゃんが出演していますが、ニヒルな表情が素敵でした。ただ、思ったほど出番はなく、ちょっとしたスパイスといった感じでしょうか。
全体的に大人びた雰囲気のアメリカの中学生ですが、校庭のカビたチーズを巡る「チーズタッチ」の話などは、日本の小中学校でもありそうな雰囲気で、子供らしさを感じることができました。
子供向けと知らずに見ましたが、大人でも充分楽しめるコメディ作品でした。
※ここからは作品の核心部分、ネタバレを含みます。ご注意ください。
性格の悪すぎるグレッグと純粋で良い奴ロウリーのコンビ
主人公のグレッグは、最初はダサいなりに人気者を目指す、ちょっと自意識過剰な男の子といった感じなのですが、お話が進むに連れて、その性格の悪さが露呈していきちょっとびっくりしてしまいました(笑)
いや、大人向けのコメディ作品なら全然許容範囲なのですが、子供向けを謳っている作品でここまで突き抜けた嫌な奴を主人公に持ってくるというのは斬新に感じました。
どんな感じかというと、基本的にぽっちゃり系でファッション等にかまわない親友のロウリーのことを下に見ていますし、そのロウリーを遊びの途中で骨折させてしまっても謝りもしません。むしろ、ロウリーがその骨折をきっかけに人気者になったことで、僕のおかげで人気者になれた、とすら思っています。さらに、自分の失敗がロウリーのせいだと勘違いされたときも、これ幸いとそれを訂正しないままにしておこうとします。
どうでしょう。なかなかに嫌な奴ではないでしょうか。
それに対して親友ロウリーは、確かに「イケてる」少年ではありませんが、気持ちは優しく、純粋です。そしてとても素直な性格で、実際に骨折を機に得た人気は、その後も変わらないまま、おおらかで素直なキャラクターがクラスに受け入れられていきます。
自作の漫画で学校新聞の漫画担当に応募して選ばれたり、ママと息子のダンスパーティーでノリノリで踊ってみんなを楽しませたり、グレッグが打算尽くしで登り詰めようとしていた位置まで、全く意図することなく、自然と上っていきます。
私のイメージだと、アメリカのスクールカーストだと性格が結構悪くても、容姿やファッションが洗練されていれば序列は上がり、どんなに良い子でもロウリーみたいなタイプの子は人気者にはなれないと思っていたので、ロウリーが順調にステップアップしていたのはちょっと意外でした。(かなり偏見入っててすみません・・・。)
「チーズタッチ」と友情の復活
校庭に落ちているカビたチーズを触ると「チーズタッチ」と呼ばれ皆に避けられる。そして「チーズタッチ」でなくなるためには誰かにタッチしないといけない。タッチされた人が次の「チーズタッチ」となる。
そんなどこの学校にもありそうなお話が、グレッグ達の学校にもあります。
ドイツから留学生の子がチーズタッチのまま帰国したことで、グレッグ達の学校のチーズタッチ騒動は一旦収束していました。
一旦はグレッグのあまりの身勝手さに崩壊してしまっていたロウリーとの関係ですが、ラストにかけて、このチーズタッチをきっかけに二人は仲直りを果たすこととなります。
以前グレッグとロウリーが怒らせてしまった卒業生が学校まで乗り込んできて、まずはロウリーにチーズを拾い、食べるように命じます。
抵抗しつつも恐怖のあまり命令に従うロウリー。
再度落ちたチーズを見て誰かがチーズタッチになったことを悟るほかの生徒たち。ロウリーの様子を見て、ロウリーがチーズタッチだという宣言がなされようとしています。
そこでグレッグは「チーズタッチは自分だ」と言い放ちました。
あんなにこだわっていたイケてる人気者になることを捨てて、ロウリーのために自己犠牲をはらったのです。
正直、それまでの悪行がなかなかのものだったので、ここでそこまで感動したりということは私はなかったのですが、ロウリーという大切な友達と仲直りできて、自分が大事にすべきものは何かということに気付いて行動できたのは良かったなと思います。
それまでの嫌な奴路線のままだと、グレッグは恐らくずっと下り坂のままで突き進んでしまっていたと思います。
思春期の早い時点で新しい価値観を得られたことは、彼のこれからの人生にとって、とても大きな意味を持つはずです。
そういう意味では、確かに子供向けの作品だったのかなと今さら思ったりします。
学校への影響力が強い父を持つ嫌味な女子生徒や、弟を徹底的にからかい、いじめ続けるバンドマンの兄、まだ赤ちゃんながら絶妙な表情で煽ってくる末の弟(赤ちゃんなのに素晴らしい演技力だと思いました)など、サイドの人物達もハッキリとしたキャラクターで、作品にメリハリを与えてくれていました。
学校という狭い世界には、多くの見えないルールがあったりしますが、成長するにつれて、それはそんなに大事なものじゃなかったと気付くことも多いです。
なにが本当に大事なものなのか、グレッグ君の性格の悪さにドン引きしながらも、気軽に笑いながら考える機会をくれる作品かなと感じました。お子様のいる方は一緒に見てみると良いかもしれません。
続編もあるそうなので、機会があれば見てみようと思います。