アラサーニートの雑記帖

アラサーニートが感じたことや日々の出来事などを綴る雑記ブログです。

実感と思い出どちらを取るか ~写真を巡る葛藤~

昨日、他の方のブログで、「恋人の写真は、遺したい派ですか?」という記事を読ませて頂きました。

アラーキーこと荒木経惟さんや、古屋誠一さんのそれぞれ妻に焦点をあてた写真展の話から、「好きな人を作品として遺す」ということへ話題が及んでいました。

aniram-czech.hatenablog.com

この記事を読んで、私ならどうするかな、と考えていたのですが、好きな人に限らず、写真を撮るかどうかは私の中ではいつも結構葛藤があるな、と思ったので、今回はその葛藤について書いていきたいと思います。

 

そもそもあまり写真を撮らない

私は普段、そんなに写真を撮りません。

ブログを始めてからは、なにかに使えるかもと記録に残す意味で撮ることが増えましたが、基本的には少ない方だと思います。

別に写真が嫌いなわけではないですし、珍しくおしゃれなカフェでお茶をしたときや、飼っている犬が可愛すぎる!と思ったときにはスマホで撮影したりします。

本当は空や景色の写真なども撮って残したいなと思わなくはないのですが、私の腕のなさのせいで、なかなか良い感じの写真にならないことも多く、そうこうしているうちに美しい光はいつの間にか流れてしまっていたりして、空や景色は難しいなと、最近では特に撮ることが減りました。

私は最近流行りのインスタグラマーでもないので、日常の写真は特に撮ったからと言ってそんなに見返すこともないな、というのも大きいです。

しかし、旅先や友人の結婚式などは別ですよね。特別です。

そんな時に葛藤が生まれます。

 

旅行での葛藤

旅行は、自分にとって非日常、特別なシチュエーションのひとつです。

いつもと違う風景やお店、一緒にいる人とのワンシーン。

なにからなにまで新鮮で、残しておきたいものばかりです。

しかし、写真を撮る時は、写真を撮ることに集中しないといけません。

私のようなド素人だと余計に時間がかかります。

なんだかそう考えると、写真を撮ることがもったいないように感じてしまうような時があるのです。

今、目の前にこの風景はあるのに、この人はいるのに、モニター越しの景色にばかり気を取られたくないなと思うのです。

上手に写真に残すことよりも、思う存分楽しんで、記憶に残すことの方が多分大事だ。

そんな感じであまり写真は撮っていなかったりします。

ただ、旅行から帰ってきて、やっぱり撮っておけば良かったかなと思うことも多いです。

その時の実感か後々の思い出か、いつも迷ってしまいます。

 

友人の結婚式での葛藤

大切な友人の結婚式。純白のウェディングドレスに、厳かな教会の光、なんとも言えない表情で花嫁の手を握る父親。そしてそれを眩しそう見つめる新郎。

そこでは、フォトジェニックすぎる光景が次から次に繰り広げられます。

そして、なにより微笑ましく幸せそうな友人の姿、写真に残したいもので溢れています。

しかし、ここでも私には葛藤があります。

結婚式の雰囲気を壊したくない。そして、写真を撮っている間は式に参加できていない気がする。

なんとなく、失礼な気がしてしまって仕方がないのです。

自分がもし花嫁だとして、皆が写真をたくさん撮ってくれるのは、きっと嬉しいだろうと思うんですけどね。

でもあの空間では、一緒に祈ったり、幸せを願ったり、ひたすらそういう空気の一部になりたいというか、自分がああいう空気が好きなだけかもしれません(笑)

あと、結婚式などは大抵プロのカメラマンさんがいて良い写真を何枚も撮ってくれるので、私がわざわざスマホで撮る必要もないよな、という気持ちもあります。

ただ、代わりに披露宴では(私にしては)たくさん写真を撮らせてもらいました!

幸せな空間にいるのは、自分も幸せな気持ちになれるので良いですね。(何の話してたんだっけ?)

 

恋人の写真についての葛藤

最後に、せっかくなので、最初にご紹介した記事にあった「恋人の写真は遺したい派かどうか」について考えてみたいと思います。

まず、側にいる間はいらないなぁと思います。

旅行と同じですね。写真を撮っている間に、恋人との色んな時間を楽しみたいなと思います。

しかし、今みたいに遠距離だったり、もしも、万が一、後に遺されるようなことになったら、見返したり、思い出として写真は欲しいです。

大好きな人のことでも、人ってやっぱり忘れていくな、と遠距離になって思いました。

長く会わずにいると、顔も声も、段々と曖昧になってきます。

そんな時に、写真はその切り取られた一瞬をきっかけとして、「映像」で思い出を蘇らせてくれます。この写真撮ったときこうだった、こう言ってた。そこからまた別の記憶が浮かんできたりすることもあります。

記憶の糸口としての写真の力は大きいです。

切り取られるのは瞬間ですが、その中に大きな時間を含んでいます。

そう考えると、写真は思い出のインデックスとして、私達の記憶を代わりに預かってくれているのかもしれません。

 

ここまでは、そもそも写真を撮っておくかどうかということについて述べたのですが、実際にブログの筆者であるチェコ好き (id:aniram-czech)さんの設問は、

もしもあなたが芸術家だったとしたら、恋人や妻や夫との思い出を作品にしますか?

というもの。

うーん。きっと私が芸術家なら、恋人のことをモデルにひとつくらいは作品を作ると思うんです。

その作品が恋人の特別な部分、自分にしか見せないような部分をあまりにも映し出していたら、表には出せないかもしれない。

それは自分以外の誰の目にも触れさせたくないなって。

でも、恋人の持つ力や優しさや、本人の良さを引き出せたような作品なら、逆に色んな人に見せたいと思うかもしれないです。

それは自慢したいのかな、なんなのかな。

私だけの特別な部分は見せたくない、と言いながら、私だけにしか引き出せない魅力みたいなものは見せつけたい、みたいな心理なのかもしれません。(ワガママ)

ちょっと写真から離れちゃいましたね・・・(笑)

 

 

最近では、インスタグラムのために色んなオシャレなところに行って、オシャレな体験を写真におさめる人たちが話題になっていたりします。

写真を撮るために何かする、というのは本末転倒なんじゃないかと思ったりもするのですが、「写真を撮る」ということ自体を楽しむ人たちもいて、そういう方達の撮った写真はやはり美しくて、感動したり、心奪われることも多いです。

実は至るところで写真撮影が行われる状態があんまり好きではなかったのですが、最近ではスマホのカメラの普及などで「写真」という趣味を持つ人が増えただけなのかな、と思うようなってきました。

記録としての写真と、芸術や趣味としての写真、どう捉えるかでも見え方が変わるような気がします。

考えるにつれて、これからはもう少し気軽に写真を撮っていこうかな、と思ったり思わなかったりする私でした。