アラサーニートの雑記帖

アラサーニートが感じたことや日々の出来事などを綴る雑記ブログです。

【映画】『三度目の殺人』を見ました

先週に引き続き、また公開中の映画を見に行ってきました。

今回は久々の邦画。そして私の好きそうな静かにストーリーを見せるタイプの作品だったので、期待していきました。

 

三度目の殺人(2017年 / 日本)

国内外から高い評価を受ける是枝裕和監督が、2013年公開の『そして父になる』で主演を果たした福山雅治と二度目のタッグを組んだ話題作。

一件の殺人事件を巡り、犯行を自供した被告人とその弁護人の間に横たわる真実を探る法廷サスペンス。

gaga.ne.jp

 

あらすじ

クビになった工場の社長を殺害し、その犯行を自供している容疑者・三隅は、殺人の前科があり、強盗殺人の上遺体に火を放っていることからも死刑が確実視されている。

弁護士である重盛は、なんとか無期懲役に持ち込むために彼を弁護することに。

裁判に勝つことだけにこだわり、いつも通り真実には目もくれず、戦術のみを考えて三隅に対峙する重盛だったが、証言が二転三転する三隅に苦戦を強いられる。

弁護に有利なストーリーを組み立てるために三隅の殺人の動機に迫ろうとする重森は、しかし、いつの間にか真実を追い求めていた。

 

感想

久々にとても疲れる作品で、見終わった後、しばらく頭痛がしていました。

それだけ見るのにエネルギーがいる作品でした。

邦画らしく、淡々と描かれているのですが、とにかく見ている間中様々なことを考えさせられて、見終わってからもまた考えさせられます。

一件の殺人事件を巡って、死刑が確実視されている容疑者を無期懲役にするために裁判を争う。

その出来事だけが描かれているのですが、いくつもの謎やテーマが重ねられ、視聴者は幾度も形を変えるその物語の真実をなんとか探り当てようとして深みにはまっていきます。

全体的に役者さんの演技も素晴らしく、作品世界に入り込んで集中して見ることができました。

決して楽しい映画ではありませんし、すっきりすることもない、というかモヤモヤばかりが後を引く映画ですが、久々に良い作品を見たなと思います。

 

※ここから先は物語のネタバレを含みます。未鑑賞の方はご注意ください。

 

複雑なキャラクターの生きている演技

この作品はどの役も複雑で難しかったと思うのですが、皆さん過剰になることもなく、淡々と、でも沈み込むような作品の雰囲気をしっかりと作り上げてくださっていました。

容疑者・三隅を演じた役所広司さんはもうさすがとしか言い様のない演技で、とらえどころのない三隅という男を、不気味な現実感で浮かび上がらせていました。

自己犠牲を厭わない善人なのか、命を弄ぶサイコパスな悪人なのか、真実と言える答えを彼自身が持っているのか、語る言葉のなにが真実でなにが嘘なのか。

映画を見終わって、自分なりにこうだろうなという結論が出てはいるのですが、それでもやっぱり違うのかもと思わせられる、素晴らしい演技でした。

また、個人的にシリアス系だとちょっと浮く気がすると思っていた福山雅治さんですが、なんだか思いのほか演技が自然になっていて、冷静で感情を切り捨てるような前半のキャラクターから、三隅に翻弄され徐々に崩れ、感情的になっていく様を見事に演じきっていました。(上から目線ですみません。)

以前なにかで見たときは、ちょっとかっこつけ過ぎているというか、福山雅治福山雅治だな、と思ったのですが、今作では全くそんなことはなく、作品世界をきっちりと守っておられました。

あと広瀬すずさんは出演作を見るのが初めてだったのですが、今まで偏見でちょっと苦手意識持ってました。ごめんなさい。

力強くて、まっすぐで、良い女優さんだなと思いました。

事情を抱えながらひとり現実と向き合おうとする被害者の娘・咲江を、抑えた表現でしっかりと演じられていました。

 

見るものを翻弄する重層的な構造とプリズムのような変化

当初、弁護士の重盛は、弁護において真実や依頼人を知ることなど必要ない、と切り捨てており、大事なのは依頼人のためになる戦術や選択であると信じています。

また、裁判官や検事、弁護士と司法に関わる人たちが、みな普通のサラリーマンと同じようにスケジュールや成果によって縛られている様も描かれています。

そういった裁判や司法といったものへの問題提起が、ひとつの大きなテーマとして描かれています。

咲江が判決後に重盛に放った「ここでは誰も真実を話さない」という台詞が重たいです。

また、もうひとつの大きなテーマは死刑制度に関して。

死んだほうが良い人間がいるのか、それを誰が決めるのか。

三隅が最後に受けた判決は、三隅が主張を変えずに、咲江が証言をしていれば恐らく変わっていただろうと思います。

つまり、変わる可能性のある状態で、三隅は判決を受けた。

冤罪とまでは言いませんが、情状酌量の余地が本当はあるのに、そのことは裁判官たちに知られない(知らされない)ままに、判決は下されるのです。

当たり前ですが、真実は本人にしかわからない。同じ物事の当事者であっても、複数人いれば、それぞれ別の真実があるはずです。

裁判で争われる材料は、真実にできる限り近づけようと努力された結果の「真実である可能性が高いもの」。真実との間にある深い溝は、誰も超えることができません。

その真っ暗な溝を、覗き込むように促される作品です。

他にも、被害者の娘・咲江とその母の関係、重盛と娘の関係、三隅と娘の関係、三隅と咲江の関係など、親子関係という視点も織り込まれており、ここがさらにこの作品の迷路を複雑にしています。

このように、折りたたまれたいくつもの要素と、それらが何度も何度も視点を変える度に違う姿をみせてくる、その眩暈がするような視界の変化に辛くなるのですが、辛いままに思考を巡らせることこそが、この作品を見ることの意味なのだと思います。

 

 

久々に楽しむのではなく、苦しむための映画を見ました。

恐らく見ると結構疲れると思いますが、考えることが好きな方にはぜひ見て頂きたい作品です。