アラサーニートの雑記帖

アラサーニートが感じたことや日々の出来事などを綴る雑記ブログです。

気になる言葉たち

小さい頃から読書が好きで、色々な作家さんの書く文章に触れてきました。

そして、最近ではブログを始め、自分でも文章を綴り、また、ネット上でも他のたくさんの方の文章を読むようになりました。

もともと文章や言葉が好きだったのですが、最近はさらに、書き手としての意識で読むことも多くなり、新しい楽しみを感じています。

そんな中で、どうしても気になってしまう言葉や表現があることに気付きました。

今回はそんな気になる言葉について書いてみようと思います。

 

言葉は生き物・・・誤用?新表現?

まずは、見かけるたびについ気になってしまう言葉の誤用について。

具体的に気になっている言葉を例に考えていきます。

 

永遠と

最近特によく見るようになったなと思うのが「永遠と」です。

「永遠と続く」「永遠と愚痴を聞かされて」のように「延々と」との誤用が目立ちます。

「えんえん」と「えいえん」の音の近さと、「非常に長く続く」という延々の意味と「いつまでも果てしなく続く」という永遠の意味の近さから誤用が広まっているのだと思うのですが、それにしても最近本当に見る機会が増えた気がします。

「永遠」を用いるのならば、せめて「永遠に」としてもらえれば違和感が減るのにな、と個人的には思ってしまいます。(意味的な若干のずれは生じるでしょうが)

 

的を得る

あと、こちらはネット上でも散々議論を呼んでいて、場合によっては荒れそうなので書くかどうか迷ったのですが「的を得る」という表現。

個人的には「的を射る」が正しいと教わり、ずっとそう考えてきたので、「的を得る」という言葉にどうしても違和感が拭えません。

覚える時に「的を矢で射ることから来ているんだよ」と説明を受けていて、そのイメージが強く残っていることが大きい気がします。

ただ、2013年に三省堂国語辞典が「的を得る」は誤用とする説を撤回するなど、世間的には受け入れる流れになっているようです。

少し調べてみたのですが、そもそも「的を得る」こそが正しい言葉だとする主張もあるようで、調べているうちによくわからなくなってしまいました。

ただ、私自身が「的を得る」という言葉を使うことは今後もないと思いますし、使っているのを見たら、やはり「誤用だ」と感じてしまうだろうなと思います。

 

言葉は生きている。変化するもの。そういう考え方はわかりますし、頑なに拒むだけではいけないのだろうなとも思うのですが、やはりモヤモヤしてしまいます。

また、上記の2つのパターンで、仮に「永遠と」が辞書に載る日が来るとしても、「延々と」の誤用から広まった言葉として記載されるのではないかと思うのですが、「的を得る」の場合はそもそも誤用ではないのだ、ということになったことがモヤモヤポイントをさらに高めているなと感じました。

ただ、こうやって書いてみると、単に自分の知識が正しかったんだと思い込みたいだけのような気もしてきました。

 

意識高い系の造語

SNSや求人情報、自己啓発系のメディアなどで見かける「顔晴る」「最幸」「人財」などの意識高い系の造語たち。

正直に言えば嫌いです。ゾワゾワします。

そもそも漢字それぞれの意味があって熟語として成り立っているわけで、それを自己満足な当て字に変えて「なんか良い事言ってやったぜ!!」みたいな空気が気持ち悪いし、言葉に対して失礼だと思います。(熱くなってしまいました・・・)

なんというか、こういう言葉を使う人たちって目先の利益しか見えていない人たち、もしくは洗脳された人たちのように思えてしまうのです。

とりあえず表面を取り繕っているだけに見えるというか・・・。

なんだか押し付けがましく感じるのも嫌悪感のもとかもしれません。

でも、「言霊」的な考え方から来ているのかも、と思えば、その人たちの中では意味のあることかもしれないですね。

ただ、私はやっぱり受け入れられないので、側に寄らずに遠目から眺めていようと思います。

 

カタカナ語とその略語・造語

ブログ界隈だと「バズる」という言葉が一般的になって久しいようですが、なるべく使いたくないな、と古い価値観に捉われている私。

自分が言ったり書いたりする場合は「弾ける」などと頑張って言い換えるようにしています。

他にも「アジェンダ」や「プライオリティ」などのビジネス語や、「リスケ」などのカタカナ略語もなんだか苦手なところ。

「バズる」に関しては、ニュアンスとして従来の日本語で言い換え辛い部分があるのはわかるので、なんとなく苦手というだけで、その言葉自体は便利なものだと感じます。

ただ、アジェンダやプライオリティに関しては日本語の方が短いし、わかりやすいし、なんのためにわざわざカタカナに言い換えるんだといつも疑問でした。

前職のお偉いさんがカタカナ語大好きな人で、「ドラスティックなパラダイムシフトで結果にコミットするどうのこうのー」みたいな演説が好きだったのですが(結果にコミットするは嘘です。ごめんなさい。)、正直意味がよくわからなかった・・・。

言葉ってお互いに伝わることが第一義だと思うんですよ。

だから正直、「永遠と」だろうが「的を得る」だろうが、言いたいことがわかれば、言葉としての役割は果たしていると思います。

ただ、カタカナ語たちに関しては、そもそも意味をわかり辛くしている部分が大きすぎる気がして、なんだかなーと思ってしまいます。

そういう意味ではさっきの「顔晴る」なんていう造語たちも、本来の意味があるのに、無理やり後付けで勝手な意味を持たせようとしているところが気持ち悪く感じるのかもしれません。

 

書き言葉は難しい

最後は今までとは若干方向性が異なるのですが、自分が書くようになって、気にしていることについてです。

1つは、ら抜き言葉い抜き言葉などに関して。

ら抜き言葉に関しては、普段から結構気をつけているので、書く時に出ることはほとんどないかなと思うのですが、「思ってます」のような「い抜き言葉」に関しては、ついついやっていることがあります。

別に「い抜き言葉」は絶対NOとまでは思わないのですが、気付いた時に、周りの文体と合っていないようなら直します。

口語調で書いている部分などでは、あえて入れないこともあります。普通に気付いていない場合も多いですが(笑)

また、結構やってしまうのが「すごい良い!」のように「すごく」を「すごい」と書いてしまうパターン。

喋る時によく使っているのですが、「すごく」はテンションの高い語句なので、ついつい喋るテンションで書いてしまうことがあります(笑)

こんな感じで色々と試行錯誤しながらですが、丁寧、かつ親しみを感じられるブログを目指して書いていますので、アドバイス等あればぜひお願いします!

 

 

今回は言葉について書いてきましたが、どうやら私は言葉に対しては割と保守的なタイプのようです。

言葉の本質が「伝わること」にあるのなら、私自身、あまり表面的な表現(誤用、新しい言葉、カタカナ語など)に捉われて拒否反応を示すのではなく、基本的には理解しようとする姿勢でいなければいけないな、とちょっと反省しました。

そしてその上で、自分が美しいと思える、素敵だなと思える言葉を綴っていけるようにしたいなと思います。