『首折り男のための協奏曲』を読んで ~内容とは関係ない私の気付き~
先日、伊坂幸太郎さんの『首折り男のための協奏曲』という小説を読みました。
私は読書が好きで、伊坂さんの作品も結構読んでいるのですが、大体いつも「あー面白かった」と思って読み終わります。しかし、今回は違いました。
「よくわからなかった・・・。」
不思議な世界観のお話でも、いつも読者をその世界に引き入れ、最後は作品とのお別れがもったいなくなるような素敵なお話をたくさん生み出されている伊坂さん。
それが今回は、なんだか迷子にさせられて放置されてしまったような印象で、読み終わっても頭に?が浮かびまくっていました。
実験的な作品だったのかな・・・?などと思いつつ、とりあえずそのまま、あとがき・解説と読み進めていくうちに、(私にとって)衝撃の事実が発覚したのです。
これ「短編集」じゃん!!!!
『首折り男のための協奏曲』は「短編集」なのですが、私はなぜか一遍の「長編」と思い込んだまま読んでいたのです。
そのために、そもそも別々のお話同士の帰結を勝手に結びつけようとして、勝手に迷子になり、勝手に混乱していたのでした。
伊坂さん、ごめんなさい。
短編集と思って再度それぞれのお話を簡単に読み直してみると、もやもやとした印象だったものが、くっきりとそれぞれの輪郭を持ち始めました。
あー、普通に面白い。
伊坂さん、本当にごめんなさい。
でも、私にとってはなかなか面白い体験でした。
長編だと思い込んでいたときと、短編だと知った後では、同じ作品でも見える世界が全く違い、改めて2つのことが体感できました。
- 思い込みってすごい
- 「知る」ことで世界は変化する
私は今回、「この作品は1つのお話のはず」という思い込みだけで、実際は存在しないそれぞれのお話同士の繋がりをなんとか見出そうとしていました。このとき、無理に繋がりを作ってしまっていた部分もあったと思います。
そして、「この作品は別々のお話が複数並べてある短編集なんだよ」と知ったことで、それまでとは違った景色が見えてきました。
今回のことに限って言えば、思い込みにより世界が歪み、知ることによってそれが是正され、私は「正しい世界」を見ることができました。
ただ、いつでも「思い込み」が悪で、「知ること」が善かというとそういうわけでもない気がします。
「思い込み」は信仰や信念として、その人の世界を力強く支えてくれる骨子となることもあるでしょうし、例えば「幸せだ」と思い込んでいることで、その人は本当に幸せに生きることができているかもしれません。
「知ること」によって間違った知識に踊らされてしまったり、表面の知識だけに振り回されて本質を見誤ったり、なにかを知ることによって変化した世界がその人にとっては不幸なものになってしまうこともあるでしょう。
これは善でこれは悪だというような決め付けは、世界を狭めてしまうかもしれないですね。
なんて、書いていたら長々となってしまいました。
ともあれ、結局私は私の目を通してしか世界を見ることができないのだから、それがより良く見れるように、より良く思えるように生きていきたいなぁ、と思うのでした。
※本当に内容とは全く関係なくなってしまいました。次からはちゃんとレビューとかも書きたいと思っています。